テレビを持たない 、これからの情報との付き合い方とは
家にテレビがない生活をはじめて
14年になる。
なぜパッと数字が出てくるのかというと
結婚と同時に手放したから。
それも意思を持って手放したのではなく
夫が一人暮らしをしている部屋にテレビがなかったのだ。
慣れとは恐ろしくも素敵なもので
14年間、本当に全く不自由なく、テレビなし生活を送っている。
大きく痛かったテレビの代償
テレビを置かない生活を続けられているのには
少なからず昔の記憶があるからだと思っている。
実家暮らしをしていた時は
やることがなければテレビを観ていた。
それもボーッと頭が痛くなるほどに。
その後は決まって、「頭が痛い」「また時間を無駄にしてしまった」
という後悔の波にしばらくのまれます。
「後悔しているくらいなら観なきゃいいのに…」
これができなかったんです。
なぜならそこにテレビがあったから。
パソコンやスマホのように、パスワードを聞かれることもなく
リモコンのスイッチを押せば始まる、簡単で魅惑的な箱に逆らえなかったのだ。
空間と時間が自由になる
▲我が家の情報スペース、壁の開放感
いきなりテレビなしの暮らしを始めて
慣れるまでに大変だったのかというと、そんなこともなし。
それどころか、良いことしかなかったと思っている。
私や夫の実家、友人の家にお邪魔していつも感じるのは
テレビの存在感って大きいなということ。
それも結構な大きさに毎回驚く。
テレビを置かないということは
必然的にその分の空間が増える。
「何を観ようかな」と探している時間や
とりあえずボーッと観ている時間もなくなり、自分のための時間も増える。
シンプルにして明快な答えだが
これって誰しもが欲している二つではないだろうか。
取捨選択の力をつけていく
▲趣味の野球観戦は、アプリで楽しむ
今や、番組終了から一週間は無料で視聴できますという
テレビ局公式アーカイブやアプリのおかげで、
テレビそのものがなくても
テレビを観ることができる時代だ。
私自身はiMacやiPhoneのアプリで、欲しい情報だけをピックアップし
都合のいいタイミングで視聴することにしている。
そこで気づく。
テレビがダメなのではなかった。
使われるのではなく、こちらが上手に使いこなせばよかったのだ。
これからの時代はきっと、
自ら情報を選ぶことができるか、という力が試されてくる。
だから私のように物体があると抑制できない人は
それ自体をなくすという選択だって有りということ。
必要なものは自分で取りにいく
観たい番組がないのに
ダラダラとテレビの前にいた昔の自分を振り返ってみた時、
欲しい服があるわけでもないのに、
セレクトショップのサイトでネットサーフィンをしていた
少し前の自分と重なった。
今は欲しい(必要な)モノがある時だけ
サイトを開くようにしている。
その方がやたら情報を仕入れていた時に比べて
欲しいものにピンポイントで出会えている気がする。
情報もモノも、必要な時にその分だけ取りにいくので十分なのだ。